増村保造のジェンダー像とポストモダンフェミニズム

 『ボーイズ・ドント・クライ』という映画は近年稀に見る醜い映画だったと思う。
 要は”性同一性障害“という(なにかおどろおどろしい)普通でないものに対しての世間の覗き見趣味に適当に応え、そのことによってこの映画を見た人に何ごとかを学んだかのように勘違いさせ、「私はあの映画に出てくるような(不寛容で理解のない)人たちとは違うのよ」「(性同一性障害に対して)理解があってそれを許容するリベラルな良識派なのよ」と思い上がらせ(そのことによって彼らの品性下劣な動機を隠蔽し)、まさしく映画のなかにあったような覗き見趣味を拡大再生産させるためだけにあるようなものであった。
 このての映画がヒットしたと聞くと、どうもアメリカという国はなんらかの疚しさを隠蔽するためだけにある種の「良心」が野火のようにぱっとひろがる精神風土があるなといつも感じるのだけど、いろんな賞をもらったらしいこの作品において主人公のブランドン・ティーナを演じた女優は「女優賞」を獲得したのだし、主人公はあくまで「男になりたかった」「女」として語られる。少しもののわかった人でも主人公の性別をFtMのTGとして(というひとつの性別として)語るだろう。
 何がおかしいの?と言われるのか?そりゃーやっぱりおかしい。だってブランドン・ティーナは自分を「男」だと自認していたし「男」として周囲や恋人と関わり「男」として行動していたのである。彼を「男になりたかった」「女」と見る者は、「そのような者だから〔女のくせに(=一人前の男ではないくせに)俺たちの大事な妹(=家族の所有する年下の女性成員)を姦る(=所有する)のは許せないから〕」という理由のみで彼をレイプし〔つまりは男の力によってレイプされうる者(=女)としての自らの性を思い知らせ〕殺した犯人らと同んなじことをしているわけだ!
 本人が自認するのでない性としてそのひとを規定すること、特にそれが女であるとき、それは世間による(男社会による)二重のレイプになる。それはまるっきり問われることなく、「不寛容はイケマセン。世の中にはいろんな人がいるんです」みたいな教訓でおわるおめでたさ。この不幸なできごとに対処するには、物語を口当たりの良い愛の物語に仕立てあげることでもなければ、犯人らの不寛容や残虐さをあげつらうことでもない。むしろ犯人らは(弱い人間たちが「力」にしがみつこうとするときによくそうするように)世間の構造の命じるままに「当然のこと」をしたに過ぎないかもしれないのだ。世間がブランドンのような存在に対して強いること、行なうこと、映画はそのあたりを問い返したり批判したりすることなく、ここにあって「性」をめぐるディスクールは、まったく既存の安全圏の領域にとどまっており、少しも変わっていない。

 「性」の領域において(たぶん性の領域にかぎらず)「啓蒙」という方法論が機能不全に陥っているのは、この一事においてはや明らかであろう。必要なのは「理解」や「許容」やましてや「ヒューマニズム(人類愛・同胞愛)」などではない。理解とともに「批判」すること。常に構造に目を向け、自らもまたその構造の一部にしっかり組み込まれていることを自覚したうえで、その位置から「批判」すること。その構造を揺り動かす試み。「撹乱」すること。
 そのためには、目に見えるもの耳に聞こえるものあらゆる現象に現われることごとを、耳に快いモラルや愛といった言葉で隠蔽してしまってはいけない。その構造をつきつめてつきつめてあらゆる部分を暴露すること。それをしっかり分析すること。すべてを極端なまでに機能させること。それしか、その構造を機能不全に陥らせる術はないのではないか。
 この小稿では、わたしが好きでよく見ている「映画」のなかから、特に最近大規模な回顧上映が行なわれた増村保造のいくつかの作品を手がかりに、前の時代ならば反動と呼ばれたにちがいない(フェミニズム以前の)ある極端な表現からあからさまに露呈される「性」の構造を、いわばポストフェミニズム的に再読することを試みたいと思う。



 今回の増村保造回顧上映でたくさんの未見の作品をまとめて見て、あらためて増村という作家は、日本映画史上最初にあらわれた本格的なポストモダンな映画作家ではないかなと思った。
 それは、たとえば色の使い方(おなじ「赤」の使い方でも大島渚のそれとどれだけ違うことか!)、構図の決定のしかた、音(人間のセリフや声も含めた)の使い方、画面のなかの「動き」の設計、編集の論理…などなど映画美学的側面でもそれを強く感じるのだが(そのへんの細かい分析は、近年ようやく日本でもその環境が整備されてきた学問的なフィルムスタディをなさっている方がやってくれればいいなぁ…と期待しているのだが)、「性」の扱い方においてもまた!
封切当時に見ればひょっとしたら単にひどい女性差別にしか見えなかったかもしれないものが、今見直せばポストモダンフェミニズム的に非常に鋭いところを突いているような気がする。

 たとえば1968年6月、まさしく世界が若者の異議申立てに大揺れに揺れるさなかに制作されたことになる『セックス・チェック 第二の性』。
 おそらく東京オリンピックからメキシコオリンピックへとつづくひとびとのスポーツ観戦熱のなかで「セックス・チェック」という新しい言葉が(そのどこか淫猥な響きとともに)ひとびとの耳目を集め、それをネタとしてうまく利用した寺内大吉の風俗小説が原作なんだけど、今になってこれを見ると、そのあまりの荒唐無稽さにあきれるばかりというか…。
 粗筋を説明すると・・・
 まだ映画に使われまくって消耗する以前だからかなり粗削りでナマっぽい顔をしている緒方拳演じる、桁外れに強いがその強さゆえに周囲と折り合いが悪く陸上界(彼を所有する象徴的父親)から除外され引退したさる元短距離選手が男主人公で、女を次から次へとほしいままに収奪しまくり自らの「力」(それを代表するのが彼の「走る」という肉体的性能だ)を恃みにしているという意味で、これみよがしに(かなりグロテスクに)男性・性を強調した存在であるその男が、これまたデビューしたてで顔つきや若いのびやかな肢体がそれまでの日本の女優離れした野性的なやはりナマっぽい姿をしている安田道代(映画好きのひとにはコメント無用だけど後の大楠道代ね)演じる女主人公を見出し、彼女を一流の短距離選手に育てあげようとする。
 その育て方が奮っている!
 彼はまず彼女に剃刀を渡してこう言うのである。 | | これで毎朝ひげを剃れ!生えてなくても毎朝剃ってるうちに生えてくるようになるだろう。そうしているうちにお前は男になるだろう。なんせ女であることは陸上選手としての強さ(速さ)を邪魔することでしかない。お前は男になるのだ!だから俺はお前を女としては扱わない。(女とみれば必ず力ずくで自分のものにしてきた彼が彼女にだけは一緒に住んでも絶対に手を出さない、とされる)。
 ここで「力」「強さ」(その代表たる運動選手としての性能)は、一に「男」のものとされ、女性・性はそれを阻害する要因とされる。
 そのようにして「男」として運動選手としての肉体と性能を研ぎ澄まされてきた女主人公は、彼女を鍛えあげた男主人公の目論見どおり、陸上界のお偉方らの前でものすごい記録を出してみせる。そのときその権威らの勧めによって彼女は「セックス・チェック」の診断を受けることになり、なんとそこで「女ではない」と判定されてしまうのである!(「半陰陽」というタームが用いられる)。
 彼と彼女の周囲には、男主人公を自分の理想の男性像として同一化する憧れの視線で見つめている友人の滝田裕介がいたり(その男が医師として女主人公のセックス・チェックを行なう。つまり医者の権威/性を決定する権威が男性・性に同一化し依存する弱々しさ)、その医師の妻の小川真由美は男性・性の力強さに憧れて男を応援し愛されることに自分の存在価値を見出すという、いわばこれみよがしに(かなりグロテスクに)女性・性を強調した女であり、まさしくそういう存在にふさわしく、男主人公に強姦され棄てられて気がふれてしまったりするのだが…。(このあたりのキャラクターの配置のしかたも巧妙)。
 そこが物語の折り返し地点であって、さて、「女ではない」診断を受けてしまった安田道代を、緒方拳はどうするか?
 先に「毎朝ひげを剃れ!そうすればお前は男になるだろう」「一緒に住んでも俺はお前を抱かない。お前は女ではない」とやってた彼は、今度は方針を180度転換し、「俺がお前を女にしてやる」と言うのである。
 どうやって?もちろん(笑)「これからは毎晩お前を抱いてやる」というわけだ!

 ・・・とまぁ、こういう話を、この映画を見た翌日にたまたま飲み会で会った年下の女ともだちを相手に、深夜の京阪電車(京都から大阪へ向かう最終急行やったかな?)の中でしてたら、もう二人の女は笑い転げて止まらないのである。
「それギャグですか〜? まじでやってるの〜?」
「いや、それがもう大真面目な映画!ギャグでもパロディでもなんでもないのよ〜!」
(こういうあからさまな話を酔っ払って大声で電車のなかでしてたもんだからあとで考えてみるとそうとう恥ずかしかったかも…)
 そのあとは、またそこが荒唐無稽な物語。そうやって毎晩セックスを重ねていると、ある日ランニング中に安田道代が倒れ、助け起こしてみるとなんと彼女の股のあいだに血が流れている!それまで無かったメンスが初めて訪れたのだ!なんとめでたく彼女は「女」になったというわけだ!…あらためて滝田裕介の診断を受けた彼女は、今度は「女である」と認定される!
 彼女は実は真性の半陰陽ではなく疑似半陰陽だったのだ、先の診断は滝田の誤診だった、と理屈付けされるのであるが、明らかにそれは後からくっつけた言い訳っぽい。ここで映画の物語が語りたいのは、「女」は「男」に犯され続けることによって、男の意思によって恣意的に「作られる」(女に成る)ということである。まさしくボーヴォワールの『第二の性』の冒頭の有名な言葉が、「まんま」物語になっているわけだ!
 そもそも緒方拳が安田道代をまず見込んだのは、そのまだ女性にも男性にもなる以前の(すなわち「人間」以前の)「野性」である。彼女はまだ人間になる前の「獣」なのだ。その獣からある目的に沿った「力」(この場合は短距離選手としての性能)を最大限引き出すように、彼は彼女を改造する。その肉体を研ぎ澄まし、鍛え上げる。彼が彼女を導いて歩かせるとき、その首筋に手をやって、まるで猫の首っ玉を掴んで運ぶように扱うのだし、運動選手としての肉体の鍛錬・琢磨に必要なだけ脚や胴体や彼女の体の各処に接触する仕草、あるいは彼女が彼に馴らされて寄り添う仕草、すべてが「男と女のエロチシズム」というよりは、もっと乾いた、人が目的を持って動物を改造し飼い馴らしていくような機械的な即物性と、人間でないもっと野性じみた肉体を扱うナマナマしさが伴う。
 初めは彼女を「男にする」、中盤以降は彼女を「女にする」と方向は180度変わったとしても、男主人公が女主人公の肉体をある目的に沿って改造していくという映画のリズムは変わらず、そこにはたとえば「愛」といった表現で表されるような優しい感情が流れるようなホッとした時間の継続は皆無である。二人の主人公の「心理」や「内面」がじっくりと演出で描かれることもない。
 また、スポ根ドラマのような浪花節でもない。「勝利」とか「記録」とかいう「目的」をめざして二人がすべてを犠牲にして一つになって頑張るという物語に主眼が置かれているのではなく、ひたすら人間を「改造」するというその改造の過程そのものがこの映画の主眼になっている。
 その改造の過程、ある(気狂いじみた)論理に沿った一連の行動を、常に緊張した高い強度で重ねていく経過が、くっきりとした映像と色彩と(その「結果」として現われる生理血の赤さ!)はっきりとしたリズムによって映画に刻み込まれるばかりだ。
 この映画にあって女性・性、男性・性は、いささかも普段の「人間性」とふれあうことがない。「人間」からは離れた、「人間」とはまったく関係のない概念である。そこまでいけば狂気に近い論理…。
 「男」は作られる。「力」を身につけることによって。その「力」で女を収奪することによって。
 そして「女」もまた作られる。「男」の「力」によって犯され続けることによって!
 でラストはどうなるか?
 ・・・は、ネタばれになるからここでは書かないことにする(笑)。…が、まぁ想像はつくと思う。そうしてめでたく「女」と「成った」女主人公は、果たして運動選手としての性能(つまり「男」としての「力」)においてはどうなったのでしょうか…?しかしそこまでは想像ついても、想像のつかない時点で、映画はふいに語ることをやめてしまう。
 もし「勝利」とか「記録達成」をめざす物語ならば、その「勝利」または「敗北」がハッピーエンドあるいはアンハッピーエンドとして、クライマックスに置かれてしかるべきだろう。しかしそういう到達点は作られない(そういう「盛り上げる」演出はあえて避けられている)。
 それではないとすれば、その狂気の論理を脱した「人間」としての女主人公の回復、そして男主人公の回復、二人の「人間」の恋人同士としての愛情の回復が暗示されるべきか? それなのに、そこに至る前に、そんなものは「無いのだ!」といわんばかりに、やっぱり安田道代の首筋に手を当てて彼女を導いて向こうのほうへと歩かせる緒方拳のその特徴ある二人の歩行のショットで、増村は映画を終えてしまう。
 かくして二人が「人間」になることはついにない。この登場人物らは分裂した「性」のありようを体現し(「性」の改造を実現し)、そのまま消えていくのである。それが「性」そのものであるとでも言うように。「性」にまつわるさまざまな概念を代表するイマージュ(映像と声)が適切に配置され、その関係性が描かれ、関係性の変化を無駄なく追っかけ、そして変化が終了したところできっちり終止符が打たれる。
 (ちなみに増村映画のラストの作り方はいずれも絶妙だと思う。余韻を長々と長引かせたり余計な後日譚を付け加えたりというような「タメ」をつくることは全くなく、ふいに唐突に映画をぶち切るのだが、それが物語にとっては最大限効率的な時点で切られ、なおかつラストショットにすべてが凝縮されてあるかのように印象的なイマージュがそこに刻みこまれるのだ!)

 これとは対照的なある映画の風景を思い出す。
 いわばこの『セックスチェック〜』の前提ともなるべき映画ともいえるだろう市川崑の『東京オリンピック』(1965)において、女子陸上中距離のさる種目で、ある美人の(というよりは目のぱっちりした「可愛い」タイプかな?)イギリス人女子選手は、競技においてはものすごい力を発揮して先を走るたくさんの選手をごぼう抜きにして一位でゴールテープを切り、しかしゴールインしてもそのままどんどん先へ走って行って、どこへ行くのかと思えば、同じ競技場の目立たぬ隅で同僚選手らと一緒にいる彼女の婚約者のところまで走っていって、その首っ玉にかじりついて喜びの表現をするのである。
 それを中継しているアナウンサーはなんと微笑ましい風景か!みたいな口調でそのことを語るし、実際その光景をみて微笑ましいと感じるひとがほとんどだろうし、かくいうわたしも微笑ましいと感じる。(そういう人間同士のささやかで温かくて濃やかな感情のふれあいや行動や仕草の交差などをみて、いちいちこれがフェミニズムから見て政治的に正しいか正しくないかなどとケチをつける趣味はわたしにはないし、そんなの何の役にも立たないし、映画や文学やいろんな表現を見る目を貧しくしてしまうだけだと思う。そういうところでも勘違いしているフェミニストのみなさん、あるいはアンチ-フェミニストのみなさんも多いような気がするけど…)。
 しかしそこで彼女に要求されるものはなにかといえば、運動選手としての性能で評価されること(いわば世間から値踏みされること)、かつ(自分を所有する)男に対しては可愛い女であること、それがとても「人間的」な「愛」だとされていることである。(女に対して、社会で求められる性能においては人一倍の力を発揮し、でも自分に対しては可愛い女であってほしいという相も変わらぬ男の虫の良さ…)。
 トラックにおいては非情にも運動能力だけでランク付けされ値踏みされていた(いわば人間としては疎外されていた)彼女は、その「ゴール」以後の世界で、婚約者に抱きついたところで、いわば「人間」に戻る。しかしどのような手段で?それは「女」としてである。そのように女性・性が人間性と切り離せないものとして彼女には要求されるのだ。それがうまくいって幸せであるうちはいい。しかしもしその幸せになんらかの齟齬が生じた場合は…?
 それがモダニスト市川崑*の真骨頂であり、なおかつその限界を示しているこの「人間的な」シーンに対して、増村の映画の風景がいかに「非人間的」か!
*『東京オリンピック』には当時の映画人や技術陣総出というほど大勢の優秀なスタッフが関わっていて市川はその「総監督」なのだけれどシーンの取捨選択においてやっぱり彼の意思は貫かれていたと想像する。

 そして人間を凝視する市川よりも、人間の非人間的な側面を凝視する増村のほうが、「性」をめぐる真実をそこに明示しているのではないか。
 「性」は生物的に決定されたもの、固定的なもの、本質的なものでは全くない。
 「性」とは人工的に捏造されるものである。
 そして、人間性や個人のアイデンティティとは無関係である。
 
 その『セックスチェック〜』の映画の話をして夜の京阪電車の中で笑い転げた、わたしの若い友人やわたしがそれを大笑いしていられるというのも、現実のわたし自身にそのような体験がふりかかってくることは絶対にないと信じていられるからである。現実に社会的階層としての女がそのような者と見做されていた時代、実際にそのような者として扱われた経験のあるひとたちにとっては、笑うなんてことはとてもできないかもしれない。このような映画は端的に「性差別」として「糾弾」の対象として以外には考えられないのかもしれないけど…。
 後になってから「ルサンチマン・フェミニズム」などと同じ女性たちからも疎まれ遠ざけられた、ウーマンリブのなかでも男社会や男に対する恨み辛みのきつい一群のひとたちは、そのようにして作られた女性・性をそのまま自分のアイデンティティとして押しつけられ、そのような者として扱われ、自分自身のなかでもそのアイデンティティをうまく位置づけることができなくて(自分は「女である」という一点にしか拠ることはできないのにそれとうまく折り合うことができない)、その不当さへの抗議と自分のなかの分裂とに引き裂かれて苦しんだのかもしれない。
 ただいま現在はそれが男としてのアイデンティティをしっかり得ることができなくて、かといってフェミニストらが「男社会」を糾弾するのを自分たちの存在そのものが糾弾されているものと勘違いして、殊更にフェミニストらを憎む一群のアンチ-フェミニストたちに、そのような感覚が引き継がれているのかもしれないな…と思う。
 いずれにしても「男」「女」という性別がある絶対的・本質的なものとして(絶対に変えることのできない/変わることもない生物的性=セックスとして)なおかつ自分のアイデンティティとも切り離せないものとして、さらにそのアイデンティティにそぐわない自分も意識し分裂しながら、自ら苦しんでいるのが、そういうひとたちの不幸かもしれない。
 歴史的にそういう層が出てくるのもある程度は必然のことで、そういう人たちを一概に非難することはできないと思うけど…。

 社会的階層としての「女」を生きる人間たち、人工的に捏造された「女性・性」。そのような分裂を、ポストモダンな映画作家・増村保造は、現在のポストモダンフェミニズムの立場からも再評価できるようなやりかたで、高度に意識的に、あえて分裂させて描いているようにみえる。
 たとえばこの『セックスチェック〜』にも顕著であった、女を「獣」として扱う仕草、動作。
 ほかの映画でも、たとえば『美貌に罪あり』(1959)で聾唖のゆえに純な娘心を保っているとされる(つまり他の要素がいろいろ絡みあって不純な女たちよりも女性・性の面で純粋度が高い)野添ひとみは、川崎敬三や杉村春子の手によって何度も何度も大きく頭をぐりぐりと撫でられるのである。それは一人前の大人に対する「可愛がりかた」とは違うだろう。子どもに対するそれでもない。いわば、物言わぬ可愛い動物のペットに対するそれである。
 『痴人の愛』(1967)もまた! 
 原作はもっと淫靡な色あいが濃やかで(なんせ谷崎潤一郎)モダンでエロチックな関係の力の交換と交歓と逆転・倒錯が繊細かつ大胆な筆致で描かれた作品であったけど、増村保造の映画は、イタリア映画のような原色の色遣いのポップな感覚が印象的で、からっと乾いてなおかつ欲望に渇いたポストモダンな喜劇として機能していたと思う。そこでナオミを演じる安田道代は、映画の中でもまさしくそれと語られるように「猫」なのだ!
 (谷崎の小説から増村の映画へのこの変化は、あるいは芸術形式としての映画の歴史をそのまま示唆するものではないかとさえ思える。すなわち表層的・ポストモダン的な様式への進化…)。
 ほかにも女を「猫」と名指した映画は多かったように思う。女は人間(の標準形としての男)よりもより自然に近い「動物」として、男たちを撹乱するのである。
 そのように、増村の映画のなかで女性・性は(人間ならぬ)獣として描かれる。

 若尾文子というのは、その時代の節度ある(というよりは一流の映画女優として確固たるステイタスのある)女優として、決して裸は見せないのであるが(つまり「脱がない」女優なのであるが)、それならそれで若尾が主演する映画では極力裸のシーンは減らして「裸の無い」エロチックな映画的表現を追及すればいいものを、またそんなことはきちんとした映画的技倆のある増村には簡単すぎるぐらい簡単だろうに、どういうものか若尾文子主演の映画にかぎってやたら裸のシーンは多い。
 それらはもちろん、見れば誰でも簡単にわかるぐらい体型の違う(ホンモノのほうがずっと華奢な)吹替え女優によるヌードで演じられるのだが、絶対顔を見せない(顔は向こうを向いているか髪の毛や何かモノで隠されているか俯いたままである)その裸身がまた、即物的な裸の肉体そのものとして、見る者の目を撃つ。
 そのように、増村の映画のなかで女性・性は即物的な裸の肉体として、いわばモノとして描かれる。

 『千羽鶴』(1969)で、原作では女は美しき日本と同一視されるなにものかとして愛でられ鑑賞されるのであるが、映画でははっきりとグロテスクな血のついた(これも増村の赤!)茶碗のかけらとして、まるで死んで焼かれて骨になった死体のかけらがそこに飛び散っているかのように、モノとなった女が砕けてばらけるラストシーンで終わるのである。
 そこでは女はまさしく「死んだもの」としての「静物」なのだ。(とはいえ映画じたいはイメージがスタティックすぎてやっぱり川端康成の原作は増村には合わないなと思わせた、失敗作に入るだろう作品ではあったが…)

 また、たとえば『赤い天使』(1966)。
 白黒シネスコサイズという増村の得意としたフォーマットにおける、目を瞠るばかりの映画美学的な完成度もさることながら(増村のカラーも勿論素晴らしいものだけれど美学的にはやはり白黒のワイドスクリーンにおける達成度が抜群に優れていると思う。構図でありイメージのメリハリであり動きであり…)、若尾文子が戦場で繰り広げられるあらゆる性の極限状況を生きる各々のエピソード(人間の女性としての個を滅した女主人公は兵士として扱われるか或いは女性・性そのものとして扱われるかどっちかである)、死を覚悟した最後の戦闘前夜に恋人の軍医の前でジェンダーを交換してみせるシーンの心浮きたつよう真摯な儀式(いかにささやかではあっても決して滑稽でなくある荘厳な「笑い」を伴う非日常の「遊び」の儀式)の仕草・言葉のあらゆる細部、それらひとつひとつの美しさにはただただあっけにとられるばかりで、これは増村保造版『小さな兵隊』だなと確認しながら、若尾文子のきりっとした小柄な華奢なからだのイマージュと、若尾の吹替え女優の(顔をみせない)どてっとした裸のイマージュ、そして戦場における男たちの運命たる切り刻まれた身体(いわば部分死体か。切り離された手足など)と死体のごろごろするイマージュとが、巧みな編集によって積み重ねられ、ある種の重たい構造として再構築され、みごとにスクリーンに定着されているさまを見る。
 『盲獣』なんかも原作の江戸川乱歩流の猟奇をはるかに越えていたと思うけど(たぶん乱歩の時代の猟奇とポストモダン流のいわば器官無き身体をにふれるものとは論理が異なると思うけど)、『赤い天使』にごろごろする部分死体や全体死体(?)もまた、アラン・レネの『夜と霧』と、饒舌に過ぎるスティーヴン・スピルバーグの『シンドラーのリスト』とその9時間の長きに渡って続く絶句のほうが決定的に正しいと思わせるクロード・ランズマンの『ショア』との二つの映画にこれみよがしにごろごろ見せつけられる/あるいは見せられることなく堆く積み重なっていた死体の山とを、遥かに橋渡しするものであったろう。
 そう。ここに至って男もまた人間ではない。
 いわば増村は、人間が人間でありえなくなる瞬間を、そこに映画的事件として、定着させているのである。
 『赤い天使』においてその白黒画面のなかでも増村の「赤」は、兵士の傷口から噴き出す血としてまず視る者の目を撃つのであるが、それよりもなによりも感動的なのは、先に記した最後の夜のジェンダー交換の儀式のあと、死を覚悟した恋人同士が最後に交わすキスマークの「認識票」の交換であろう。
 皮膚の表面に集められたその血の徴が、小さな死(=オルガスム)を暗示するエロチシズムともに、文字どおりの死も意味する美しい血の配置、ミクロコスモスとしての星座。

 「身体のあらゆる表面とあらゆる穴を用いてあらゆる性的実践を行なうこと」なんてーアジテーションを、さるレズビアン・フェミニスト(もちろんポストモダンな)が言ってるらしいよ、なんてなことを言うと、さる若いともだち(わたしからみればけっこう撹乱的な性を生きている)が、「きゃぁっ!」とカマトトぶって頬を染めて恥ずかしがってみせ、それからぽつんと「それだけじゃないぞ〜」と恐ろしい一言を言う。
 こんど「きゃぁっ!」と(ムンクの絵のように頬を両手で挟んで)叫ぶのはわたしのほうだ(笑)。聞いてみると、そのひとは最近SMに目覚めたんだそうです。
 つまりは表面をわざわざ裂いて(あるいはいろんな物理的刺激を加えて)人工的に開口部を開けたり裂け目や襞をつくったり血をみたり…というのも非常に重要な性的実践であることでありますな。
 リストカット症候群というような(社会的)症例や、それをどう呼ぶかは忘れたけど剃刀やなんかでわざと自分の皮膚の表面を切っていろんな模様を作ったりその血の流れる様子を記録したりする前衛アート表現(なんとかタトゥーとか言ったっけか?)なんかもその流れに属するのかもしれない。

 そういえばもちろん『刺青』という、これまた若尾文子(+若尾文子の吹替え)+増村保造というゴールデンコンビの傑作もあった。
 それら比較的有名な増村作品をこの文章の中で取り上げてないのは何故?と聞かれると、今回の回顧上映では、わたしが既に見たことのある比較的有名な作品は(経済的・時間的な余裕のないせいで)パスして未見の作品ばかり選んで見ただけのことで、それら未見の作品を中心にレビューしたからですという、ひじょーに行き当たりばったりの返事しかできないのだけれど(笑)、いつかそれらもまた全部見直したい、そしてもっとちゃんとした増村論書きたい、とも思う。いつのことになるかわからないけれど…。
【2001年2月 jaja】

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